2009年06月16日

モンティ・パイソンとスパム

モンティ・パイソンによるコメディ番組、空飛ぶモンティ・パイソンに「スパムの多い料理店」(「〜大衆食堂」とも。原題はズバリ "Spam")というコント(sketch)があり(en:Spam (Monty Python))、『豚肉と煮豆とスパム』、『卵とソーセージとスパム』、果ては『スパムとスパムとスパムと・・・(執拗に繰り返し)・・・とスパム』といった具合にメニューがスパムだらけで、店主のおばさんがメニューでスパムを連呼する度に他の客(なぜかバイキング)がスパムスパム……という歌を歌い出し、番組自体さえスパムだらけになるというものであった。これが、迷惑行為を指すスパムの始源とされている。

英語版Wikipediaの記述によれば、スパムが第二次大戦に端を発する英国の配給制から外れた数少ない肉類のひとつだったために、飽き飽きする食べ物という意識をつのらせていたことがこのコントの背景にある、とある。

ハッカーとモンティ・パイソンとの親和性は指摘されるところであり(ハッカー文化も参照されたし)、メッセージを繰り返して何かを溢れさせるような迷惑行為を、ハッカー達がスパムと呼ぶようになった。The Net Abuse FAQ[8]では、MUDのメッセージ機能で、SPAM SPAM SPAM ... と繰り返す嫌がらせを行った者がいた、という話を紹介している。『ハッカーズ大辞典』初版のspamの項には、[MUDコミュニティから]とあり、これを語源としているが、現行のジャーゴンファイル[9]ではモンティ・パイソンからとしている。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

大量のメッセージングによる迷惑行為がネットコミュニティで最初に問題になったのは、ネットニュースにおいてであった。「初の」、ではないが初期の有名なUsenet(ネットニュース)スパムに1994年のグリーンカードスパム(en:Canter & Siegel#Green card spam)がある。

その後、電子メールでのスパム(迷惑メール)が、ネット内にはとどまらない大きな社会問題となり、一般にスパムと言えば今日では電子メールによるスパムを指す

なおこの現象に対し、ホーメルフーズ側は「当社の商標はSPAMである」として、迷惑メールに関しては “spam” と小文字で表記する事を提案、自社サイト上で呼び掛けている。しかし同社は、商標名を社名や商品名に使用する事は容認しておらず、SpamArrest社(迷惑メール対策ソフトウェアを開発)を商標権侵害で訴えた。その一方、インターネット利用者の中にも「spamは食えない(面白みが無い)がSPAMはウマい!」等とする愛好者も現れるに至り、インターネット経由で愛好者を増やしたり、日本ではGeek(技術マニア)が秋葉原に行くついでに「アメ横でスパム缶を購入」が冗談用のスタイルとして派生している。

2004年4月1日には、技術情報関連ニュースサイトから個人情報が流出、7名にスパム(同製品)が宅配便で届けられるというニュース(勿論四月馬鹿のジョーク)が掲載されたりもしている。迷惑メールに関してのインターネット利用者らの反感は根強いが、本製品に関しては一定の(同情を含む)好意的な感情が存在する模様である。


2009年05月30日

深心院

深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年10月7日(1721年11月25日))は江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗の側室で、源三(夭折)、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の母。名は梅、久。父は谷口正次。院号は深心院。
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元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。

その後、紀州藩を継いだ吉宗の寵愛を受け、吉宗が八代将軍になると紀州藩邸から江戸城大奥に移り、享保4年(1719年)に源三(夭折)、享保6年(1721年)に宗尹を産んだが同年、22歳の若さで病没。上野寛永寺凌雲院に埋葬された。戒名は深心院慈潭性水大姉。


2009年04月27日

漁具

漁具(ぎょぐ)は、人間が漁撈活動に用いている道具の総称である。漁具は歴史的には、人間と漁業の関わりとともに、原始的な形態や仕掛けをもつものから、機械化されたもの(漁業機械)へと進化を遂げてきた。新しい漁具の開発が生物資源の乱獲を招く場合もある

動物園・交通関連全国地域情報ナビ
育毛・サプリメント関連美容整形サーチ
キルト マネー経済ガイド
介護・レストラン関連生活雑貨情報
メンタルヘルス・育毛養毛関連家庭の医学・健康ネット
バイク・化粧品関連ショッピングプラザ全国情報ガイド
ホームステイ・音楽関連学習情報
特産物・観光関連お出かけサイト
しわ取り・コスメチック関連美容・エステガイド
パインフィールド 経済ガイド

漁網
網漁で使用される漁網(あみ)の種類については別項を参照。

釣り具
釣り漁で使用される漁具(釣り具)のうち、釣り竿(つりざお)、釣り針(つりばり)、浮子(うき)、錘(おもり)、天秤(てんびん)、餌(えさ)を「釣りの六具」と呼ぶ。これ以外の釣り具として数えられるものに、ルアー、リールなどがある。

刺突漁具
水中を移動する魚類・クジラなどを徒行あるいは船上から直接刺突する道具(突具・鈎具)。簎(ヤス・矠とも表記)・鉤(カギ)・銛(モリ)などがある。

陥穽漁具
魚類の習性や生態を利用して仕掛けに誘導して捕獲するための漁具。ウケ(草冠の下に全という漢字)、梁(梁漁を参照)、エリ(魚へんの右に入という漢字)、篭、モンドリ、蛸壺などがある。

漁業機器
機械化されている高性能漁船に装備されている機器として、魚群探知機、集魚灯、超音響測定器などがある。

2009年04月10日

オリヴィエ・メシアン

オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen, 1908年12月10日 - 1992年4月27日)は20世紀のフランスおよび世界を代表する作曲家。通常は「Olivier Messiaen(オリヴィエ・メシアン)」の名で知られる。アヴィニョンに生まれ、クリシーの病院で亡くなった。 オルガン奏者、ピアニストとしても長年演奏活動を続け、録音も数多く残している。また、本人は作曲家としての肩書きに「リズムの創作家」をも名乗っており、神学者としても稀にみる博学さを持ち合わせており、そして鳥類学者として世界中の鳥の声を採譜した貴重な偉業を成し遂げた。色彩についての言及がことさら多く、音を聴くと色彩や模様などを連想するという共感覚の持ち主であり、その詳細な記述は世界の人々を驚愕させたが、それを楽譜に書き込むことも多かった。

1931年に、22歳の若さでパリのサント・トリニテ教会のオルガニストに就任した。そこでの即興演奏は世界中に評判となり、彼の即興演奏を聴こうと人々は教会を熱心に訪れることとなった。彼はこの職を、その最期まで60年以上も務めることとなった。

ちなみに、彼の命日を日本においては1992年4月28日とした情報が旧来からあったが、最近ではそれは誤報であったことが知られており、正しくは1992年4月27日と改められている。

父親: ピエール・メシアン(Pierre Messiaen, 1883年 - 1957年)英文学者
母親: セシル・ソヴァージュ(fr:Cécile Sauvage, 1883年 - 1927年)詩人
実弟: アラン・メシアン(Alain Messiaen)
夫人: クレール・デルボス(Claire Delbos, 1906年 - 1959年)ヴァイオリニスト,作曲家,1934年に結婚
子息: パスカル・メシアン(Pascal Messiaen, 1937年 -)デルボスとの子
夫人: イヴォンヌ・ロリオ=メシアン(Yvonne Loriod-Messiaen, 1924年 -)ピアニスト,デルボスの死後1962年に再婚
フランス南部のアヴィニョンで生まれた。8歳の頃からひとりでピアノと作曲の勉強を始め、11歳でパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学。在学中より多くの作品を残し、1930年頃からはインドやギリシアのリズム、音と色彩の関係、鳥の鳴き声などの探求を始め、その影響が作品にあらわれるようになり、独自の音楽語法として用いるようになる。中でも移調の限られた旋法(M.T.L.)は、広く知られ、晩年まで彼の特徴的な雰囲気を形づくる一つの要素として様々に使用された。

1931年、パリのサントトリニテ教会のオルガニストとなり、そこで彼は即興演奏の技術を確立するとともに、多くの宗教音楽を作曲した。第二次世界大戦中にはドイツ軍の捕虜となり、収容所内で世の終わりのための四重奏曲を作る。1942年にパリに戻ってからは、母校であるパリ音楽院の教授となり、生徒としてピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ヤニス・クセナキス、トリスタン・ミュライユ、ジェラール・グリゼーなど、日本人では別宮貞雄、矢代秋雄、丹波明、端山貢明、平義久、宍戸睦郎、篠原眞、吉田進、加古隆、福士則夫、仲俣申喜男、藤井一興、小鍛冶邦隆、安田正昭などを教えた。

著作も大変多く、特に初期の著書「わが音楽語法」は日本でも翻訳されている。(ただし日本語訳は現在絶版。)わが音楽語法を残した後、前衛の時代に入っても独自の探求は継続し、「クロノクロミー」、「我ら死者の復活を待ち望む」では理論の複雑化が頂点に達した。メシアン本人は「わが音楽語法の続編」を「リズムの教程」として簡易なブックレットの形で出版する意向を強く望んだが、その望みが果たされることはなかった。メシアンの死後、残された遺稿集を全て出版する計画が始まり、全7巻の遺稿集がLeduc社より出版された。個人の残した音楽理論書としては最大の規模を持つ。

電子楽器、オンド・マルトノを使用した「トゥランガリーラ交響曲」をはじめ、多くの作品が現在のクラシック音楽の基本レパートリーとして親しまれている。最初の妻の死後再婚したピアニストイヴォンヌ・ロリオのために書かれた作品が多く、ピアノ曲はもちろん、多くの管弦楽曲にピアノ独奏を含む。中でもピアノ曲「4つのリズムの練習曲」に含まれる「音価と強度のモード」は、戦後の現代音楽の出発点となったトータル・セリー(総音列技法)の理論を最初に提示した曲として重要であり、後にブーレーズがこの曲と同じセリーを用いて「構造I, II」を作曲した。鳥の鳴き声に基づく作品としては、全2時間にも及ぶ長大なピアノ曲集「鳥のカタログ(鳥類譜)」、フランス以外の世界各地の鳥の声を採用したピアノ協奏曲「異国の鳥たち」、同じくピアノ協奏曲「鳥たちの目覚め」、フルート曲「クロツグミ(クロウタドリ)」など多数。また宗教的な作品として、ピアノ曲「幼な子イエスに注ぐ20のまなざし」、「アーメンの幻影」、オルガン曲「オルガンの書」、「聖三位一体の神秘についての瞑想」、「聖体秘蹟の書」など、管弦楽曲「神の現存の3つの小典礼」、「我らの主・イエスキリストの変容」、「峡谷から星たちへ」、「彼方の閃光」など、そしてオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」などがある。

1971年、エラスムス賞受賞

日本との関係 [編集]
親日家でもあったメシアンは、クロード・サミュエルとの対談の中で、日本についての個人的愛着を公言しているのを確認することができる。文化や自然、景色や人柄、そして和食についても言及し、二度目の妻イヴォンヌ・ロリオも同様に日本が好きであることに触れ、1985年第1回京都賞(精神科学・表現芸術部門)受賞の際にも共に来日している。

日本人による国内の活動としては、芸術家グループ実験工房がその活動期であった1950年代に、「前奏曲集」、「アーメンの幻影」、「世の終わりのための四重奏曲」などを日本初演し(ピアニストは実験工房メンバーの園田高弘)、メシアンの研究と日本紹介につとめた。またこの活動はメンバーの作曲家、武満徹や湯浅譲二などの初期の作曲活動に多大な影響を与えている。

1962年に、イヴォンヌ・ロリオを伴って来日した際、NHKの主催による以下の3つの演奏会などが催された。(なお下記項目においてのみ、曲名表記は当時のポスターに従った)

1962年7月4日 トゥランガリラ交響曲(日本初演)小澤征爾指揮NHK交響楽団、イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)本荘玲子(オンド・マルトノ)、オリヴィエ・メシアン監修 東京文化会館大ホール
1962年7月6日 幼な児イエズスへの20のまなざし イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)、アーメンの幻影 イヴォンヌ・ロリオ、オリヴィエ・メシアン(ピアノ)東京文化会館小ホール
1962年6月29日 オリヴィエ・メシアン講演会 第1部:リズムの研究 第2部:鳥の歌の記譜法 東京文化会館小ホール
メシアン夫妻は東京だけでなく、都市部から田舎まで様々な場所を訪れている。軽井沢を訪れた際には、ホトトギスを初めとする日本の鳥の声を採譜した。この他に奈良、山中湖、宮島なども訪れている。雅楽の演奏にも接している。

7つの俳諧 [編集]
このときの日本旅行の印象は後に「7つの俳諧」(1962年)というアンサンブルのための作品にまとめられた。笙や篳篥がメシアンの語法を用いて巧妙に模倣されている。7つの曲から成り、それぞれの次のようなタイトルがつけられている。

導入部 (Introduction)
奈良公園と石灯籠 (Le parc de Nara et les lanternes de pierre)
山中湖?カデンツァ (Yamanaka-cadenza)
雅楽 (Gagaku)
宮島と海中の鳥居 (Miyajima et le torii dans la mer)
軽井沢の鳥たち (Les oiseaux de Karuizawa)
コーダ (Coda)

主な作品 [編集]

舞台作品 [編集]
歌劇『アッシジの聖フランチェスコ』(3幕)

管弦楽曲 [編集]
トゥランガリーラ交響曲(1949)
キリストの昇天
われ死者の復活を待ち望む(1964)(管楽器とメタル・パーカッションのための)
峡谷から星たちへ(1970-1974)
彼方の閃光(全11楽章)
聖体秘蹟への讃歌
忘れられた捧げもの(交響的瞑想)
聖餐式
フーガ ニ短調
ほほえみ
クロノクロミー(1960)(全7曲)
コンセール・ア・カトル(四重奏と管弦楽のためのコンセール)(死後発見、後にロリオが完成)
輝ける墓
ある魂の純な歌

百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ

2009年03月26日

圧迫系プレイ

圧迫系プレイ (あっぱくけい-) は、SMでマゾヒストの肉体を厳しく圧迫するプレイ。


概要 [編集]
圧迫系プレイとは、一般的なセックスや「SM」などの一環として行われるプレイである。性的興奮を高めるためにパートナーの身体を圧迫し呼吸を支配する行為が圧迫系プレイである。

通常のセックスではお互いの肉体を用いて行なう。顔面騎乗と呼ばれる前戯(もしくは後戯)が知名度が高い。

SMプレイにおいてはサディストがパートナーのマゾヒストを責める方法として、マゾヒストの肉体を圧迫することを概して圧迫系プレイという。前述の顔面騎乗はもちろん、ラバー製の衣服や拘束衣を用いるなどして、相手の肉体を責め上げ、呼吸を困難にさせる高度なテクニックを要するプレイである。

肉体を用いた圧迫系プレイ
顔面騎乗(フェイスシッティングとも言う)。ただし目的は性器への愛撫ではなく、マゾヒストの顔面を圧迫し呼吸を奪うこと。そのため数十秒おきに腰を浮かせ、呼吸の余地を持たせておくことが必要。
騎乗(シッティング)。マゾヒストの肉体に座ることを指す。体格差にもよるが、胸に全体重をのせて座ればかなりの苦痛を伴う。仰向け、うつぶせどちらでもかまわない。仰向けに座る場合は、広げさせたマゾヒストの腕をサディストの足で踏むようにすればなお効果的である。四つんばいにさせて背に座るのは呼吸を苦しくさせないため、別物と認知される。
踏みつけ。寝かせたマゾヒストの上に立つことを指す。バランスをとるのが難しいため裸足で行なうほうがよい。充分に訓練されたマゾヒストであれば複数の人間を立たせる事も可能。
器具を用いた圧迫系プレイ
全頭マスクを用いたプレイ。顔にぴったりフィットするラバーマスクで覆われると、呼吸が苦しくなる。同時にラバー臭で満たされるために息苦しさと暑苦しさは相当なもの。呼吸用の穴や隙間が確保されたものを用いること。
猿轡を用いたプレイ。口の中にインフレート・ギャグ、もしくはパンプ・ギャグと呼ばれるラバー風船を仕込んだ猿轡をかませ、ポンプで膨らませる。口内を内側から圧迫され鼻でしか呼吸できなくなるとともに顔が膨らみ苦痛と羞恥を伴う。鼻が詰まっているときには避ける。
拘束具を用いた圧迫プレイ。縄や革ベルトで胸を中心に拘束する。また幅広の革ベルト(ストラップ)で腹部をきつく拘束させてから、激しい運動を強要すると拘束により呼吸がしづらい状態となる。ベルトが汗によって濡れたり、金具が引き伸ばされてると即座に外すことが難しいので手元に切断可能な道具を用意してから行なうと緊急事態に対応しやすい。
拘束衣を用いた圧迫プレイ。拘束衣で締め上げるだけでなく、コルセットを着用させることも充分な責めとなる。コルセットをつければ呼吸や食事も難しくなり血圧も上がるため失神しやすくなるとも言われる。コルセット以外では全身用のラバー(もしくはPVC)スーツを着用させる(併用も可)。ラバー、もしくはビニールの圧迫で全身が締め上げられるとともに汗が内部にたまり、首もしくは顔の開口部から蒸れた臭いがたちのぼり心理的にも効果的な責めとなる。熱中症には注意が必要である。また、同じラバースーツでも2枚重ねになったものを用いて間に空気を入れることで、外側はパンパンに膨らんだ異様な姿、内側は空気により圧迫されるというタイプのスーツもある。
バキュームプレイ。ヨーロッパ・アメリカでマニアが存在するプレイで、ベッドほどのサイズの木枠の間に2枚のビニールシートを挟み、その間にマゾヒストを入れる。掃除機で間の空気を抜くと、はさまれたマゾヒストは全身を強力な2枚のシートに挟まれ、奇妙なオブジェと化す(もちろん呼吸用のパイプをくわえさせる)。一歩間違えば死亡につながる危険なプレイ。
人間ベッド。ベッドのマットレスを人型にくりぬき、そこに拘束したマゾヒストを入れそのままベッドとして用いる。上で他のパートナーと性行為を行なうのも一興である。

注意点 [編集]
圧迫系プレイは呼吸という、数分で生死を左右する重要な生存の要件を支配することが重要である。マゾヒストは肉体的な拘束とともに不自由な呼吸によって、被虐的な悦びを得るために、常にサディスト側が注意を払わないと危険きわまりない行為である。現在では市販の携帯酸素ボンベが発売されているため、そういった準備を忘れずに何かあったら人工呼吸を施すと同時に救急車を呼ぶことが重要。そこまでの覚悟が無ければこうしたプレイは個人では難しい。

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2009年03月11日

チャコ・キャニオンの遺跡群と調査史

考古学者は、サン・ファン盆地に最初に人が訪れたのは、古期の狩猟採集民であると考える。クローヴィス尖頭器をもつ移動性の狩猟民は紀元前10000年前後からかわるがわる南西部地方を訪れた。紀元前900年にアトラトル洞窟に人が住んでいたことが明らかになっている。チャコ・キャニオンに住んだ古期の人々の足跡は、そういった狩猟民の遺跡よりも少なくわずかしか確認されていない。紀元490年になると古期の人々の子孫は、いわゆるバスケットメーカーとしてチャコ・キャニオンで農耕を続け、シャービックエスチー(Shabik’eshchee)遺跡やそのほかの集落で竪穴式住居に住んでいた。バスケットメーカー文化の時代には、チャコ・キャニオンの人口はわずかであったが、紀元800年ごろからさらに発展し、集落が三日月状に造られ、4つから5つの居住用に用いられた部屋ごとに組み合わされるようにキヴァという半地下式の宗教的な儀式を行うための大きめな空間が設けられた。こういった構造はプエブロ文化の初期に見られる特徴である。850年になると古代プエブロ人の人口は増えて、急速に居住範囲はひろがり、砂岩を用いたプエブロの集落をつくって集住していくようになる。このころのプエブロに住んだ人々をナバホ族によって借用されたウテ語族の概念では、「古代の人々」ないし「敵の先祖」という意味の「アナサジ」という名で知られるようになる。10世紀以降、チャコ・キャニオンの渓谷全体にわたるような規模のトルコ石の採取と交易がおこなわれるようになった。この時期に壮大なプエブロ・ボニートの最も古い部分が大きく湾曲する北壁沿いに50か所に及ぶ部屋がつくられた。チャコ・キャニオンの特徴的な集住システムが崩壊し始めたのは、1140年ごろからであった。おそらく1130年から始まる50年以上にわたる旱魃の影響と考えられる。はげしい旱魃を含め気候が不安定だった時期は、1250年から1450年の間にもおとづれている。ほかの原因としては、掘削した小川の水が涸れたり、森林の伐採が挙げられる。たとえば建造物を建てるための木材は、西方80kmに位置するchuska山脈から運ばれていた。12世紀末にはチャコ・キャニオンの周縁にあった集落がなくなりはじめ、チャコ・キャニオンの中央部にある建物は良好な状態のまま放棄された。研究者たちは、考古学的な成果から、チャコ・キャニオンを築いたプエブロ族は、南方や東方や西方にあるリトル・コロラド川、リオ・プエルコ川、リオ・グランデ川沿いに移り住んだと考えている。 ウト=アステカ語族の流れをくむウテ族やショショニ族などヌミック語派の人々は、12世紀初めごろにコロラド高原に住むようになり、移動性の南アサバスカ語系のアパッチ、ナバホ族の人々が15世紀からチャコ・キャニオンにやってきた。この過程で、彼らはチャコ・キャニオンの生活習慣や農耕技術を習得した。ウテ族の集団は、さらにチャコ・キャニオンに頻繁におとづれ、狩猟や略奪をおこなった。近代のナバホ族の首長によっておさめられた社会は、チャコ・キャニオンの西側につくられ、Diné族として知られる多くのナバホ系の人々はその周囲に移り住んだ。17世紀にスペイン人が到着すると征服と反乱の時代になり、チャコ・キャニオンは、スペインの支配からのがれようとするプエブロ人とナバホ人の難民を吸収する場所となった。メキシコ、アメリカと引き続いてチャコ・キャニオンに住む住民たちに対して軍事行動が起こされてきた。
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

1832年にヨシュア・グレッグがチャコ・キャニオンを訪れて史上最初の記録を残している。ヨシュア・グレッグは、プエブロ・ボニートについて、砥石のようにきめの細かい砂岩で築かれていると記録している。1849年にアメリカ陸軍の地形測量士であるジェームズH.シンプソン中尉の指揮する分隊が通過した際にいくつかの遺跡を調査した[4]。それは、次の50年間にはだれも訪れることのないような非常に辺鄙な場所であった。1870年代にスミソニアン研究所の研究者が短期間の一般調査を行った。本格的な考古学的調査が始まったのは1896年のことでアメリカ自然史博物館のハイド(Hyde)[5]調査隊によるものであった。ハイド調査隊は、プエブロ・ボニートの発掘調査を夏季の五回にわたって行った。そして60000点にも及ぶ遺物をニューヨークにある館に送った。1901年にハイド調査隊で働いていたリチャード・ウェザーリルは、プエブロ・ボニートを含む約652平方キロメートル[6]について払い下げて、自分の所有地としたいと政府に申請した。ウェザーリルの払い下げ要求を調査していた連邦調査官のサミュエルJ.ホルジンガーは、チャコ・キャニオンとその遺跡群、とくにシェトロ・ケトル(Chetro Ketl)の上にある古代の道路や階段、古代のダムや灌漑システムについて報告している。ホルジンガーの報告は公刊されることはなかったが、チャコ・キャニオンを保護するとともにそれを含めて国立公園をつくることを強く勧めるものであった。次の年、ニューメキシコ師範大学(後のニューメキシコ高原大学)の学長になったエドガー・リー・Hewettは、多くの遺跡の図化を行った。Hewettらは、1906年のアメリカ合衆国ではじめての古文化財を保護する法律である連邦古遺物法[7](the Federal Antiquities Act)の制定に貢献した。このことは結果としてウェザーリルのチャコ・キャニオンでの活動をとりまく論議の重大性を示すことになった。連邦古遺物法は、大統領が国定記念物を指定することができる権限も盛り込まれた。セオドア・ルーズベルト大統領は、1907年3月11日にチャコ・キャニオンを国定記念物にすることを布告した。1949年、チャコ・キャニオン国定記念物は、ニューメキシコ大学から土地を譲り受けて範囲が拡大された。そのみかえりとしてニューメキシコ大学は、チャコ・キャニオンを学術的に調査する権利を確保した。1959年アメリカ国立公園局は、見学者のためのビジターセンター、職員宿舎、宿営施設を整備した。国立公園局が管理する歴史的遺産としてチャコ・キャニオン国定記念物は、1966年10月15日にアメリカ国立登録史跡に指定された。1971年にロバート・リスター(Robert Lister)とジェームズ・ジャッジ(James Judge)は、国立公園局とニューメキシコ大の調査プロジェクトを結合する研究機関としてチャコセンターを設立した。多くの学際的な調査プロジェクトや考古学的な踏査、部分的な発掘調査がこの間行われた。チャコセンターによってチャコ・キャニオンの人々が築いた遺跡がさらに確認され、良好に整備された道路がチャコ・キャニオンの中央部から放射状に広がっていることが明らかにされた。プエブロ・アルトをはじめとして他の遺跡で行われた調査によってチャコ・キャニオンの文化とフォー・コーナー地域の学際的な位置づけが著しく高められることになった。チャコ・キャニオンの遺跡にみられる豊富な文化財は、小さかった国立記念物を1980年12月19日に現在のチャコ文化国立歴史公園にまで拡張することになった。さらに53平方キロメートルの保護区域が加えられた。1987年にユネスコの世界遺産に登録された。公有地管理局とナバホ保留地にあるチャコ・キャニオン遺跡群をまもるために国立公園局は、チャコ文化考古遺跡保護プログラムを実施するための総合的な機関として位置づけられるようになった。国立公園局の主導でチャコ文化国立歴史公園内の2400か所の考古遺跡の存在が確認され保護されている。そのうち発掘調査が行われたのはごくわずかである。

2009年02月22日

エラム語(エラムご)

エラム語(エラムご)は古代のエラム帝国で使われていた系統不明の言語であり、現在は廃語になっている。エラム語は膠着語であり、その近隣で話されていたセム語族やインドヨーロッパ語族の言語とは近縁関係にない。エラム語はシュメール語と「姉妹」語であると主張するものもいるが、二つの言語の間には関係がないことが明らかである。学者のなかにはエラム語が現在インドで話されているドラヴィダ語と関係があると推測するものがいる(エラム=ドラヴィダ語族を参照のこと)。紀元前6世紀から紀元前4世紀にかけて、エラム語はペルシア帝国の公用語であった。エラム語の最後の文字による記録はアレクサンドロス大王によるペルシア帝国の征服の頃に残されている。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

エラム語の文法は二重格 (double case, Suffixaufnahme) と呼ばれる名詞の格の一致を有する。

エラム文字
数世紀をかけて、3種類のエラム文字が相次いで発展してきた。現在はどの文字も使われていない。

原エラム文字はエラム文字のなかで最も古い。紀元前2900年頃にエラムの首都スサで使われたものが最古の記録である。原エラム文字は初期のシュメール文字から発達したと考えられている。原エラム文字には約1,000の文字種があり、一部は表意文字であると考えられている。原エラム文字はまだ解読されていないため、この文字がエラム語を表していたのか、他の言語を表していたのかは不明である。字形は縦長のひし形(ダイヤ型)やアスタリスク、垂直線、垂直線に三角形を追加した形状など幾何学図形から成り立っている。

エラム線文字は原エラム文字から派生した音節文字である。紀元前2250年頃から2220年頃の間に使われていたことが知られているが、おそらくそれより以前に発明されたものである。エラム線文字は主にヴァルター・ヒンツにより、部分的にのみ解読されている。エラム線文字は約80の文字をもち、縦書きで、上から下へ書かれ、行は左から右へ並べられる。

エラム楔形文字は紀元前2500年頃から紀元前331年にかけて使用された。これはアッカド語の楔形文字を借用したものである。エラム楔形文字は約130文字からなり、他の楔形に比べるとはるかに文字数が少ない。

2009年02月06日

濱口雄幸

濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、日本の官僚、政治家。第27代内閣総理大臣。正二位勲一等。初の明治生まれの内閣総理大臣である。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

高知県長岡郡五台山村(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。

明治22年(1889年)、高知県安芸郡田野村(現田野町)濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)、第三高等学校を経て、明治28年(1895年)東京帝国大学法科を卒業。

大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官などを務め、大正4年(1915年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。加藤高明内閣の大蔵大臣、第一次若槻内閣の内務大臣などを務める。立憲民政党初代総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)して組閣を行う。財界からの信任のある井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。

ライオン宰相の生き様
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が濱口雄幸である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。

首相官邸前のライオン像と“ライオン宰相”濱口雄幸。濱口は大蔵省入省後、1度上司と衝突、しばらく地方回りをしてかなり苦労した。見るに見かねて若槻禮次郎ら先輩や友人が、東京帰京の嘆願を行って呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平が財界入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦中より帝国海軍拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍省・海軍軍令部は帝国国防方針に基づく八八艦隊確立のため、国防費増額を要求していた。しかし濱口は、大戦も連合国の勝利に終わり、平和の到来が確定するや国防の充実に理解を示しつつも、国家予算の多くが国防費に消費されていることによる国民生活の危機を感じ始めていた。その上、戦後軍拡の名の下に際限なき海軍費の膨張が始まると、列国間の建艦競争が激化することをも憂慮していた。特にアメリカ合衆国が国際社会の中で早晩1番の大国となるのは明らかであり、そのことについて濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。

日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する声がある一方で、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し(後述)社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。

日本の首相で初めて当時最新のメディアであったラジオを通じて国民に直接自身の政策を訴えた首相でもある。

根回しに頼らない正面突破
大礼服姿の濱口総理濱口内閣も参照

以上の経験は、昭和4年(1929年)に成立した濱口内閣に遺憾なく発揮された。田中義一内閣が異例な形で総辞職した後を受けて、濱口は、政治空白は許されないとしてわずか1日で組閣を行った。その電光石火の早業に、宮内大臣牧野伸顕が「意気込頼母しく感じたり」と記すのも無理はなかった。

濱口は、内には大戦の好況に時代慣れした弛緩に警告を与えて不況からの脱出を唱え、他方、外には外務大臣幣原喜重郎を重用して国際協調路線を貫いた。しかし、そのためには政府与党が磐石でなくてはならない。第2回普通選挙で政友会に圧勝した濱口は、政局運営に自信を持った。だが、その濱口でさえも、政党政治は最高の形態と見ていたわけではない。「世界多数の文明国に於ける政治の形式であって、他に代るべき良き政治の形式を見出すことが出来ないため」としている。ベストではないがベター・チョイスというわけである。それがゆえに濱口は、この時代を政党政治の「試験時代」と認識した。この認識はロンドン軍縮でも活用された。濱口は日本側の首席代表に若槻禮次郎を任命した。ワシントン会議では加藤友三郎、ジュネーブ会議では齋藤實と、それまでの海軍軍縮会議の責任者は海軍出身者だったが、今回は民政党(立憲民政党の略称)の大幹部たる若槻、つまり文官を任命しただけでも、濱口のスタイルが理解できる。ロンドン軍縮会議は紛糾を重ねた。軍令部を中心に、強硬派が巡洋艦の日本の対英米保有比率7割に猛反対、これに右翼や野党も同調して対外問題は一挙に国内問題に転じた。濱口首相は根回しを山梨勝之進海軍次官に依頼するが、反対派には伏見宮博恭王、東郷平八郎といった大物が存在し、速やかな解決は不可能だった。宮中ではこの事態を危惧して、侍従長・鈴木貫太郎に根回しをさせるほどだった。

圧倒的な議席を有する民政党を率いる濱口は、大衆に支持されていた。また宮中からも信頼されているという自信があった。そこに彼自身の頑固な性格が加味されて根回しに頼らず、正面から難局を突破しようとしたのである。いみじくも、海軍大臣財部彪に「唯一正道を歩まん」、「仮令玉砕すとも男子の本懐ならずや」と述べているのは、まさに濱口の真骨頂なのである。料亭政治を嫌い、また根回しを回避し、断固たる姿勢で政局に臨んだ濱口は、戦前の首相としては珍しい存在である。その政治手腕はその意味で一長一短はあったが、自らの政治哲学を頑固に追い求めた点、首相としては稀有な存在といえよう。

金本位への転換
濱口が内閣総理大臣を引き受けるにあたって、主眼となっていた課題は経済政策であった。第一次世界大戦後の国内好況が既に終わりを告げて久しく、昭和2年(1927年)に起きた金融恐慌をはじめ、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると濱口は考えたのである(実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた)。

一貫して国際協調を掲げていた濱口は、蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用し、彼の協力の元、軍部をはじめ内外の各方面からの激しい反対を押し切る形で金解禁を断行。当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」とまで批判された。特に当時の日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)において解禁した(石橋湛山ら経済学者は新平価での解禁を主張していた)ことで、輸出業の減退を招き、その後のより深刻なデフレ不況を招来することになる。結果としては、直後に起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は昭和4年(1929年)には0.5%、翌・昭和5年(1930年)には1.1%と経済失政であると評される事になる。

濱口自身「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」と語るように、国内の経済問題が一日にして好転するとは考えておらず、むしろ金解禁は経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革されると考えていた。しかし、結果的には大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなり、経済失策は、後に禍根を残した。また、ともすれば「清貧」思想、「苦難を乗り越えてこその繁栄」などの精神論に傾きがちであり、石橋ら経済学の観点からの反対論を封じてしまうこともしばしばあった。

任期中に濱口自身が凶弾に倒れたため、その後の経済政策は第2次若槻内閣が引き継ぐ。そして昭和6年(1931年)の成長率はまたも0.4%と低迷することとなる。この大不況は民政党内閣から交代した政友会犬養内閣において蔵相を務めた高橋是清のリフレーション政策により、長きに渡るデフレを終熄させることでようやく終わりを告げることになる。高橋の取った政策は金輸出の再禁止と日銀の国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対の政策であった。犬養内閣において、成長率は昭和7年(1932年)に4.4%、同8年(1933年)に11.4%、同9年(1934年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。

濱口首相遭難事件
東京駅 遭難現場のプレートこれらの思い切った断行が右翼からの反感を買い、昭和5年(1930年)11月14日、濱口は広島県福山市郊外で行われる陸軍の演習を視察する予定で、昭和天皇の行幸に付き添い(更にお国帰りも兼ねて)特急燕に乗車するために東京駅を訪れるが、第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)で愛国社社員の佐郷屋留雄(さごやとめお。21歳)に銃撃される。この時は、弾丸が骨盤を砕き、東大病院にて腸の30%を摘出したが、一命を取り留めた。翌・昭和6年(1931年)3月に、野党政友会鳩山一郎らの執拗な登院要求に押され、まだ傷の癒えない身で無理をして衆議院に登院、5ヵ月後に亡くなった。この間、臨時首相代理を幣原喜重郎にゆだねた。

ちなみに濱口の死因に関しては、後日濱口が特殊な細菌の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿した事による症状の悪化であると判明したため、狙撃犯・佐郷屋の裁判において被告が殺人罪にあたるのかそれとも殺人未遂罪にあたるのかで大いに紛糾した。審理の結果、狙撃と死亡との間の相当因果関係がないとして、殺人未遂罪が適用されたものの、昭和8年(1933年)の判決の内容は死刑であった(但し昭和9年(1934年)に恩赦で無期懲役に減刑され、昭和15年(1940年)11月に仮出所している。佐郷屋は第二次世界大戦後も右翼活動を続け、昭和47年(1972年)4月死去)。

家族・親族
長男 雄彦(銀行家・元東京銀行頭取、元国際電電(KDD)会長) - 二女淑は皇后美智子の兄正田巌の夫人である。
二男 巌根(銀行家・元長期信用銀行会長) - 二女英子は元首相鳩山一郎の女婿元日本輸出入銀行総裁古沢潤一の長男義文の夫人である。
三女 富士(官僚、政治家大橋武夫に嫁する)

系譜
浜口氏
        昭和天皇━━━今上天皇
                ┃
              ┏美智子
       正田英三郎━━┫
              ┗正田巌
                ┃
               ┏淑
     小林和介━━直   ┃  
           ┣━━━╋宏
浜口雄幸    ┏浜口雄彦  ┃
  ┃     ┃      ┗幸
  ┃     ┃
  ┣━━━━━╋富士    ┏大橋宗夫
  ┃     ┃ ┣━━━━┫
  夏     ┃大橋武夫  ┗大橋光夫
        ┃
        ┗浜口巌根  ┏郁子
           ┣━━━┫
           稜   ┗英子
     古沢潤一       ┃
       ┣━━━━━━古沢義文        
     ┏百合子    
鳩山一郎━┫ 
     ┗鳩山威一郎  

2009年01月22日

アフガニスタン侵攻 (2001)

アフガニスタン侵攻(アフガニスタンしんこう)は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者への報復として、アメリカ合衆国が行ったアフガニスタンのタリバン政権への武力攻撃のことである。日本以外の国では通常アフガン戦争 (Afghan War / War in Afghanistan) と呼ばれている。

この戦争はアメリカ合衆国政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。イギリスを始め多くの国がこのアメリカ政府の戦争に賛同した。また、日本は2001年11月から07年11月まで正式に後方支援として参加し、インド洋に海上自衛隊の艦艇を派遣した(→自衛隊インド洋派遣)。

主な参戦国については対テロ戦争参照。

作戦名は当初「無限の正義作戦 (OIJ: Operation Infinite Justice)」とされたが、有志連合諸国の間で評判が悪かったため、「不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と改められた。英国では米国が云う「不朽の自由作戦」は「ヘリック作戦」(Operation Herrick)と呼んでいる[出典 1]。

対テロ戦争の動きは更に、イラン、イラク、北朝鮮の3ヵ国をテロ支援国家であるとするブッシュ米大統領の「悪の枢軸発言」に発展し、2003年3月にはイラク戦争が始まった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を計画・実行したとアメリカに名指しされた、国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン=ラーディンを保護するイスラム原理主義政権タリバンをアフガニスタンから駆逐するため、アメリカ合衆国とイギリスを始めとした連合軍が10月7日から空爆を開始した。11月13日には北部同盟軍が首都カブールを制圧した。

アフガニスタンの多数民族パシュトゥーン人を中心とするタリバンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後の内戦において、最終的にアフガニスタンの支配力を勝ち得ていた勢力であり、アフガニスタンの90%の土地を実効支配していたが、北部にはタジク人・ウズベク人など非パシュトゥーン系勢力の組織がいくつかあった。彼らは反タリバン同盟として北部同盟を結成しており、米国がこれを支援する形で戦争は進められた。

米国を中心とする圧倒的な軍事力によって敵対勢力は粉砕され、主たる戦闘は約2ヵ月ほどの比較的短期間で終結し、タリバン政権は消滅した。対テロ作戦の継続の為、なおも米国の陸軍と空軍の計2万人が駐留を続けた。

米国本土からの爆撃機のほか、空母から発着する戦闘機や攻撃機、ミサイル巡洋艦からの巡航ミサイルが使用され、また無人偵察機が実戦で初めて活躍した。バーレーン司令部も活用され、クウェートやインド洋のディエゴガルシア島の米軍基地からも航空機を飛ばして攻撃した。しかし、英軍が訓練していたオマーンからの攻撃をアメリカは望んでいたが、これは実現しなかった。

米国は当初、攻撃目標は軍事目標に限定していると発表していたが、誤爆などにより住宅や民間施設も破壊され、多数の民間人の命が失われている。戦争を原因とする犠牲者は、公式には明らかになっていない。

戦争から逃れるために多くの難民が発生して、その多くが周辺国へと向かい、とりわけパキスタンに流入して問題になった。パキスタン政府は戦争で米国支持の方針を出し、米英軍機の領空通過を認めたため、自国民やイスラム・アラブ諸国の反感を買った。北方のタジキスタン・ウズベキスタンも戦争を支持し、国内への米軍駐留と施設使用を認めたため、影響力を持つロシアや周辺の中央アジア諸国に動揺を与えた。

タリバン政権崩壊後はハーミド・カルザーイ大統領によって復興が進められている。当初はタリバン残党を含む武装勢力の攻勢も弱く、社会基盤の整備が進んでいた。また、米国の大手石油企業が、カスピ海とインド洋を結ぶ天然ガスパイプラインの建設を進めているという。カルザーイの大統領就任以前は、タリバンから離脱した地方軍閥が勢力を伸ばしていたが、カルザーイは民意を盾にして軍閥の力を弱めて来たため、軍閥はほぼ大統領の勢力下に置かれているといわれていた。しかし戦争の長期化とともにタリバンなど武装勢力の攻撃が増え、特に南部の治安が悪化している。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

欧米での一般的な見方では、タリバン政権下のアフガニスタンでは政治的自由はほとんど認められず、国民は厳格なイスラム法に基づいた生活を送っていたとされ、女性には参政権や教育を受ける権利も与えられなかったとされていたが、戦後は女性の社会的権利も認められ、社会進出が進んでいる。米国は半永続的に米軍基地を置く事ができるようになったが、同盟関係にあったウズベキスタンとは、2005年にウズベクが市民暴動を弾圧した際の虐殺問題で対立したため、米軍が撤収することになった。

2009年01月15日

アインスタイニウム

リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

アインスタイニウム (Einsteinium) :原子番号 99 の元素。元素記号は Es。

アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。銀色の金属。融点は摂氏 860℃。原子価は 3 価。詳細な物理的、化学的性質は不明。

半減期は、アインスタイニウム253が20日、アインスタイニウム254 が276日、アインスタイニウム252が発見されているものの中では最長で470日である。

通常は原子炉内で中性子の連続捕獲とβ崩壊によって合成される。が、これは不作為的な合成で、作為的合成は極めて困難とされる。

アインシュタイン(einstein, 記号:E)は、光化学で用いられるエネルギーの単位である。

1アインシュタインは、1モルの分子数に等しい個数(アボガドロ定数)の光子が持つエネルギーと定義されている。光のエネルギーはその周波数によって変わるので、アインシュタインの値が同じであっても、実際のエネルギー(国際単位系ではジュール(J)で表わされる)は周波数によって異なることになる。プランク定数とアボガドロ定数の積とも解釈でき、SI単位系で表すと約399.0ピコジュール秒毎モルとなる。

アインシュタインは光合成の研究に用いられる。それは、酸素の生産量が与えられているとき、それに必要な光の条件は、光の周波数ではなく光子の量であるからである。例えば、1モルの酸素を生産するためには約9アインシュタインの光子が必要である。

放射照度は、アインシュタイン毎秒毎平方メートルとして計測することができる。なお、SIにおける放射照度の単位はワット毎平方メートル(ジュール毎秒毎平方メートル)である。光合成有効放射(PAR)はアインシュタインの10-6倍のマイクロアインシュタインを用いて、マイクロアインシュタイン毎秒毎平方メートルという単位で報告されることが多い。

アインシュタインという単位名称は、1905年の論文において光電効果の原因を解明し、光量子(現在は光子と呼ばれる)という考えを示したアルベルト・アインシュタインに因むものである。
重力レンズ(Gravitational lens,じゅうりょく-)とは、恒星や銀河などが発する光が、途中にある天体などの重力によって曲げられたり、その結果として複数の経路を通過する光が集まるために明るく見えたりする現象。光源と重力源との位置関係によっては、複数の像が見えたり、弓状に変形した像が見えたりする。重力レンズ効果とも言われる。また、リング状の像のものはアインシュタインリングと言われる。

光が曲がることは一般相対性理論から導かれる現象で、一般相対性理論の正当性を証明した現象のひとつである。光は重力にひきつけられて曲がるわけではなく、重い物体によってゆがめられた時空を進むために曲がる。対象物と観測者の間に大きい重力源があると、この現象により光が曲がり、観測者に複数の経路を通った光が到達することがある。これにより、同一の対象物が複数の像となって見える。光が曲がる状態が光学レンズによる光の屈折と似ているため重力レンズと言われる。

右はその効果を示したCGである。1つの銀河から発せられた光(白い矢印)が、中央にある重い天体の影響によって曲げられ、それぞれ別の経路で地球へと届く。地球上の観測者からは、あたかも2つの同じ天体があるように見える。オレンジ色の矢印は見かけの光の経路である。

なお、複数の像はそれぞれ別々の経路を通ってきた光であるため、一般的に観測者(地球)までの到達時間が異なる。そのため、それぞれの像の光が対象物からでたのは異なる時である。

分類
3つの種類に分類される。

強い重力レンズ(Strong lensing): レンズ源の影響が強く、アインシュタイン・リング、弓状に変形した像(arc)、複数の像など、光の曲げられる現象が明らかに観測されるもの。
弱い重力レンズ(Weak lensing): レンズ源の影響が比較的弱く、多くの天体の光線データを集計することによって、統計的にレンズ効果と判定される現象。宇宙初期の背景マイクロ波が地球に届くまでに銀河形成によって揺らぐ統計などの研究がなされている。
マイクロレンズ(Microlensing): 非常に小さいレンズ源のため、光の曲がりではなく、光の明るさの時間変化によってレンズ現象だと推定される現象。銀河内のダークハローを形成する小天体が、地球から遠方の天体との視線方向を横切るときなどに発生する例が知られている。

歴史
重力レンズ効果は、1936年にアルベルト・アインシュタインが対象物、重力源、観測者が一直線上にならんだ場合にはリング状の像が見えると発表したことにより有名になった。このことから、リング状に見えるものをアインシュタインリングと言う。位置関係が一直線上からズレたり、重力源が無視できない大きさを持つと、それらの程度により弓状の像やゆがんだ複数の像が見える。弓状の像のものがアインシュタインリングと言われることも多い。

当初は、発生する可能性が低いため観測は不可能ではないかと考えられていた。しかし、1979年の3月に隣接するクエーサー像のスペクトルがまったく同じであることが発見され、8ヶ月後には、これが銀河を重力源とする重力レンズによるものであることが分った。以降多くの例が発見され、2005年現在で約100の重力レンズによる多重像クェーサー系が報告されている。

重力レンズの観測およびそれを利用した研究
測定に近似を必要とするX線観測による質量測定と異なり、重力源の質量を直接光学的観測により測定することができる点が特筆すべき特徴である。

銀河による重力レンズ効果を観測することで、銀河自体の質量を測定することが可能である。この結果とX線測定によって見積られた質量を比較すると、明らかに差がある。これは銀河に分布するダークマターによる質量が寄与しているためと考えられ、すなわち重力レンズはダークマターの質量測定に用いることができる。つまりダークマターの解明に用いることができる現象であると言える。

2003年12月18日に東京大学などの研究グループがそれまで知られていた重力レンズよりも2倍以上光が曲がる変化を発見した。

また、重力マイクロレンズを利用した太陽系外惑星の探索をPLAN、OGLE、MOAなどのチームが行っている。